「洋紙と用紙」第21回「紙の寸法とその語源」

紙の原紙寸法で、JISによって定められているのはA判、B判、四六判、菊判、ハトロン判の5種類です。

A判とB判については別にふれましたので、ここでは三三判、菊判、四六判の語源をとり上げてみます。語源は、ふとした時に話題になることがあります。古くて新しいテーマともいえましょう。

三三判 697㎜×1000㎜(2尺3寸×3尺3寸)

この寸法はJISに載っていません。現在、あまり一般的な寸法ではありませんが、語源をひもとくうえでぜひ述べておきたい寸法なので最初に持ってきました。

三三判のはじまりは、明治初期、イギリスから輸入された印刷紙によります。

寸法は、2尺3寸×3尺3寸。呼び名では、この紙が半紙判(8寸×1尺1寸)の約8倍の大きさであり、最初「半紙八判」と呼ばれていましたが、寸法がともに3寸であるところから、やがて三三判という呼び名が定着していきました。

この紙の用途は当時の新聞でした。

明治維新前後に発行された新聞の紙は、手漉きの半紙や美濃判(9尺×1尺3寸)で、印刷も木版に彫刻し馬連摺りしていました。明治7年頃になると、不完全ながら西洋紙を使った活版印刷になりました。新聞用紙も三三判を四つ切りにした大きさ(1尺1寸5分×1尺6寸5分)を使いました。この大きさを当時は、新聞判ともいったそうです。

明治10年1月、西南戦争を契機として新聞への期待が高まり、新聞記事も多くなったため、三三判四つ切りの寸法では狭くなってきました。かといって、三三判半截では大きすぎるため、四截と半截の中間の寸法の用紙をアメリカに注文しました。その寸法が25インチ×37インチ(2尺1寸×3尺1寸)で、菊判に該当するものでした。

この半截判(1尺5寸5分×2尺1寸)を新聞用紙として使うようになり、新聞判はやがて三三判四截から菊判半截へと移っていきました。

菊判 636㎜×939㎜(2尺1寸×3尺1寸)

なぜ、菊判と名付けられたか。

この紙は、明治21年ころ、日本橋区通一丁目にあった川上正助店が、アメリカのトレーヂング商会に注文して輸入したものです。当初は新聞用紙に主力がおかれていました。しかし、それだけでは不経済でもあり、一般にも使ってもらおうと宣伝することになりました。やがて、出版物にも使われるようになります。使用にあたっては、16截にした寸法が5寸×7寸2分となるところから、出版業者は最初「五七判」と呼んでいました。

販売するにあたってレッテルが必要となり、呼び名をめぐっていろいろ検討されます。この輸入紙の商標がダリアの花であり、ダリアは菊に似ているということ、菊は皇室の紋章であること。また、この紙が新聞に使用されており、新聞は新しいことを聞く紙というところから、新聞の「聞」を「きく」と読むなどいろいろなことにちなんで菊の花を商標にし、「菊印」として売り出しました。普及するなかで、やがて「菊印」が省略され「菊判」となり、現在に至っています。

菊判は、昭和4年に標準寸法のA判を生むとともに、菊判は菊判として現在も旺盛に活用されています。

ダリアの花

ダリアの花

四六判 788㎜×1091㎜ (2尺6寸×3尺6寸)

四六判のまえに、美濃判にふれたほうが分かりやすいので少し回り道をします。

明治維新になって美濃判(9寸×1尺3寸=273㎜×393㎜)は全国的に広まり、わが国の標準寸法として親しまれました。この寸法は、江戸時代には徳川御三家専用のものとされ、ほかはこの寸法より小さいものでなくてはなりませんでした。維新後、こうしたことが解禁となり、美濃判もいっせいに大きい寸法へと流れ、先に示した寸法に定着したといえます。というところで話を四六判にもどします。

明治初期、洋紙商は美濃判を応用した印刷用紙の寸法を工夫していました。

当初、イギリスから輸入されていたクラウン判(20インチ×30インチ)を約倍にすると美濃判8面取りになるところから、「31インチ×43インチ」つまり2尺6寸×3尺6寸の判をつくり出しました。この寸法の紙は、従来からの日本の印刷方式にあてはまり、大いに歓迎されます。

明治中頃までの呼び名は「大八ッ判」(美濃判の8倍の大きさ)。そして、書籍や雑誌など出版物にたくさん使われました。

全紙を32取りして化粧裁ちすると、縦4寸2分・横6寸2分になるところから、やがて「四六判」と呼ばれるようになり、現在に至っているものです。

現在の新聞の用紙は813㎜×546㎜で、四六判のほぼ半分の大きさに規格化されていますが、美濃判の寸法はその中にも生きています。

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