第1回「洋紙と用紙」

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はじめに

弊社5代目の代表取締役を務めた金児宰が、在職中に出版した「洋紙と用紙」。洋紙を取り扱う人の入門教科書として広く使われましたが、現在は絶版となっているこの本から、紙に関するあれこれを抜粋してお届けします。

 

第1回「洋紙」と「用紙」

一口に「紙」という場合、主に「洋紙」のことをさして使われますが、厳密には3種類の紙の総称が正解です。その三つとは洋紙、板紙、そして日本古来の和紙のことです。それぞれは、統計上の生産、販売経路、また、業界としても独自の世界をもって機能しています。

そのなかの洋紙のことですが、呼び方が「洋紙」「用紙」どちらも「ようし」と発音するため、とくに電話などでは判断に困る場合があります。したがって、文字にするときは前後の関係をよく判断し、正しい意味の方を記載することが必要となってきます。この項では「ようし」の中の「洋紙」について、その名の由来とは言えませんが、少々歴史をのぞいてみることにしました。

 

「洋紙」という名前

明治維新以前、紙といえば現在でいう手漉きの和紙だけでしたから、その頃は現在のように「和紙」「洋紙」などと区別する必要はありませんでした。呼び方も駿河半紙とか奉書紙というように、紙の銘柄を示すだけで紙選びの用は足りていました。また、国内の紙の需要についても、和紙だけで充分まかなえる状況にありました。

明治維新は日本の政治・経済機構を大きく変えました。藩単位であった政治・経済は、全国を統一した中央集権国家へと切り換わります。維新政府は「文明開化」「富国強兵」「殖産興業」政策を実施しますが、その改革の波は紙幣や公債証書、新聞、雑誌、書簡用紙など「紙」を使用する分野にも大きく押し寄せました。こうした時代の近代化は、同一品種で多量の紙の出現を要求し、やがて日本にも機械抄きの紙を必要とする条件が萌芽します。

しかし、当時国内には機械による製紙産業は誕生しておらず、必要な紙はイギリスなど西欧からの輸入に頼りました。明治元年の輸入量は1万8000ポンド(約8t)。その後、輸入量は年々増え、明治七年には70万5000ポンド(約320t)となります。

こうして、わが国には従来からの和紙とあわせて二種類の紙が存在することになりました。

そこで名称に戻りますが、当初の呼び名はどうであったか興味あるところです。

外国から輸入された紙は「舶来洋紙」「輸入洋紙」などと呼ばれていたようですが、西洋から来た紙ということもあり、「西洋紙」という名称がしだいに定着していきます。

明治七年になると、日本で最初の機械を使って抄いた紙が誕生します。この年は1社(有恒社)1台の機械でしたから生産高も3万5000ポンド(16t弱)とわずかでしたが、翌八年になると3社が加わり計4社(有恒社、蓬莱社製紙部、三田製紙所、抄紙会社=後の王子製紙)で17万8000ポンド(約81t)。九年になるともう1社(パピール・ファブリック)増えて、計5社で生産量も84万5000ポンド(380t強)となります。また明治20年には、東京板紙会社によって板紙が誕生しています(この年の生産高280t)。

こうして日本には国産品だけで、「和紙」「洋紙」「板紙」の3種類の紙が存在したことになります。

当初、国産の機械抄きの紙は「西洋紙」「和製の洋紙」「国産洋紙」などと呼ばれていたようですが、やがて単に「洋紙」という名前が定着していきます。『日本紙業綜覧』によると、『明治十年内国勧業博覧会案内』には「東京大阪よりは新製の西洋紙を出せり」とあります。

今では日本も世界第2位の紙の生産国になりました*注が、一方で紙を輸入しています。その中にはアメリカやヨーロッパの紙もあります。名前からいえば本物の西洋紙ですが、現在の呼び名は「外紙」とか「輸入紙」といい、「西洋紙」という呼称は使われていません。ただし、国産品と区別する意味で、銘柄に生産国名をそえて呼ぶことはあります。

(注:2015年現在では、日本の紙生産量は世界第3位です)

 

「用紙」

辞書を引いてみると、こちらのほうは「使用に供する紙」となっています。

洋紙業界でも「用紙」という用語は、「印刷用紙」や「書籍用紙」「辞典用紙」というように、使用目的を示す用途に使っています。店名でも、「○○洋紙店」はありますが、「○○用紙店」という使い方はしていません。

「洋紙」「用紙」という軸の歴史と用語の話でした。

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