「洋紙と用紙」第20回「紙の標準規格とその歴史―A列B列の誕生」
現在の洋紙は、標準規格によって寸法も交通整理されているので、紙を使用するうえでも大変便利になっています。
日本には、昔から和紙という立派な紙が存在し愛用されてきました。明治になると、そこに洋紙が割り込んだ状態になります。初期の洋紙は品質的にも劣っていたため、安定した需要を得るには多くの時間を必要としました。また、洋紙が出始めた頃は、紙の寸法さえ定まらない異端児でもあったようです。
日本における洋紙100年の歴史は、やがて標準寸法を制定し現在にいたるわけですが、その過程は寸法を例にとっても大変な苦労を含んでいました。
寸法の歴史にふれながら、標準寸法の制定過程をたどってみます。
標準寸法の制定
日本で洋紙がはじめて使われたのが明治初期であることは、別項で述べました。ところが、標準寸法が制定されたのはずっと後になります。
工業品規格統一調査会で審議、決定され、日本標準規格(JES)92号Pで「紙の仕上寸法」を制定し、商工省より告示されたのは、明治・大正を経て昭和4年(1929年)12月のことでした。
そのとき制定された規格は、A列、B列ともに0~12番まであり、原紙寸法はA列が「630㎜×880㎜」「B列770㎜×1090㎜」となっていて、現在とは少し違っていました。
標準寸法が制定されるまで
標準寸法が制定された昭和4年までの寸法は、どうだったのでしょうか。
当時、出版されていた書籍や雑誌の仕上寸法には、四六判や菊判が広く用いられていました。書籍は四六判が圧倒的に多く、ついて菊判、雑誌では菊判が主流で、四六判がこれに次いでいました。
しかし、その四六判にしても菊判にしても、仕上寸法自体が統一されていなかったのでいろいろな寸法に仕上がっていました。こうしたことは、生産や販売、保管、運送などに不便であり、また不経済であるところから、寸法の標準化問題が表面化します。
四六判・菊判が広く用いられたこと
日本には古来、文書の書写などに美濃紙または半紙の二つ折りが主に使われてきました。明治初期の書写は毛筆が主でしたが、30年頃からペン書きの書類も増えはじめます。それまではあまり用いられなかった西洋紙も、その頃から印刷用以外に筆記用にも使われるようになりました。
半紙系には菊判が、美濃紙系には四六判が取り入れられ、断截して用いられるようになります。資料によると罫紙類は、官庁では美濃紙系、会社関係では半紙系が多く使われています。国民になじみ定着した寸法ともいえます。
A列・B列の誕生とその経過
昭和4年、日本ではじめてA列とB列の誕生をみます。
このときは、原紙の「標準寸法」としてA列本判、B列本判の2種類だけ制定されました。同時に「仕上寸法」として、A列B列とも0番~12番までが決まりました。
寸法表示にはメートル法が適用されることになりました。このA列B列の寸法の特徴の一つとして、A列0番が1m2、B列0番が1.5m2になったことがあげられます。
規格統一にあたっては、従来日本でなじまれた四六判、菊判系統を考慮するとともに、諸外国の例を調査して検討されました。
標準規格をさだめるには、二つの様式がありました。
第一は、紙の製品の寸法を決めてから全紙を決める方法。第二は、先に全紙寸法を決めておき、そこから書籍など製品の寸法を定める方法でした。結果、日本は第一の方法を採用しました。これはドイツ方式の採用でもあり、第二は英米方式でした。
採用にあたっては、日本の市場に流れている四六判、菊判系統を考慮するとともに、A列にはドイツ規格のA列系統をそのままとり入れ、B列では日本独自の寸法を創作しました。
A列には菊判が該当します。B列は四六判を考慮したもので、面積比をA列の1.5倍とし、幅と長さ比を1: √2でB列0番を求め、1035㎜×1456㎜としました。これを基本とし、あとは長辺を半截にしていく方法でB列1番~12番までとしたものです。この寸法は、B6判が四六判の大きさにほぼ近く好都合であったので、B列も採用しA列とB列の二本だてとなった次第です。
現在の寸法へ
昭和4年12月4日に決定し、同6年2月10日、商工省告示として公布。
同15年12月17日決定の臨時JES第138号で、原紙寸法A列625㎜×880㎜、B列765㎜×1085㎜に改正され、現在に至ります。
同16年4月1日より商工省令によって、書籍・雑誌をはじめ全部の印刷物・用紙類は、例外として新聞用紙を除き、一切規格判の寸法に仕上げなければならなくなりました。
戦後、JESはJISに切りかえられましたが内容は生きています。なお、現在の「紙加工仕上寸法」(JIS)には、A列とB列のみ0番~10番までが定められています。