「洋紙と用紙」第23回「模造紙」という名前(その2)

「模造紙」という名前(その2)

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輸入された模造紙

第一期

明治20年頃、ドイツ人経営のモルフ商会が「ジャパン・シミリー・シルクペーパー」として輸入したのが、模造紙の初めといわれます。

この紙は、一見局紙と似てはいても折り目から切れやすく、繊維美もなかったそうですが、値段が局紙の3分の1と安かったようです。洋紙商は「模造鳥の子紙」と呼んでいましたが、やがて単に「模造紙」と略すようになりました。また、ヨーロッパでもジャパン・シミリー・ペーパーを、さらに「シミリー・ペーパー」と略して使われました。

当時、30年頃までは英商ラスベ商会、ドイツ商ベリック商会などを通して輸入していましたが、全体の量は微々たるもので、用途も名刺や辞令用などが主でした。

当時は安政条約下にあり、模造紙の原産地は輸入商館から推察する以外に方法はなく、対策もままならなかったそうです。なお、模造紙は高級洋紙の取り扱いを受けていました。

第二期

明治33年頃、スウェーデンやオーストリア産の模造紙が、ヤコビ商会を通して輸入されました。色はやや白く、強さもあったのですが、今度は硬すぎて印刷に向かず、保存的な記録用、包装用、カード用、袋用などに使われる範囲でしたが、製紙業界としてはこの紙の出現に大変驚いたようです。

その後、カールローデ商会が輸入したドイツ産の模造紙は、軟らかさがあり、色は純白、光沢、強度が強く、いろいろな印刷に適合するものでした。この紙の出現によって使用範囲はにわかに広がり、明治38年には338万ポンド(1530t)にもなりました。原料はサルファイト・パルプ(SP)を使用。関西方面では「百四模造紙」、関東方面では「赤門模造紙」の名で普及されました。

明治40年頃、スウェーデンより低価格を目標とした「K模造紙」(B模造紙)が入り、四六判・250听でも均整のとれた紙として使われました。

国産「模造紙」の開発と変遷

模造紙の繁栄をみて、国内の製紙メーカーは驚き、対策にかかりました。しかし、当時サルファイト・パルプを自製していたのは数社だけで、しかもサルファイト・パルプは下等紙に使われていた事情もあり、模造紙抄造には幾多の困難を克服しなければなりませんでした。

大正2年6月、九州製紙株式会社(後に樺太工業―王子製紙―十條坂本工場・統合閉鎖)がSPのみを使って模造し、新設のスーパーカレンダーにかけたところ、ドイツ製には及ばずながら、他国のA模造に匹敵する製品開発に成功しました。日本で最初のA模造紙が誕生したことになります。

大正7年11月には、樺太工業会社真岡工場でスウェーデンのK模造紙の模造に成功し、販売されました。

こうして、模造紙の輸入対策は約20年という歳月をかけて成功したことになります。しかし、国産のB模造紙は輸入品に比べて割高であり、苦労はその後も続きます。

大正8年11月20日「模造紙に関する協定」が製紙聨合会で締結され、模造紙の需要も一般化し、普及されていきました。

当時の種別としては、四六判にして45听から250听の15听量がありました。

明治初年、局紙に始まった模造紙も歴史の試練を受け、色も最初の淡黄色から現在の純白になりました。生みの親ともいえる局紙は、手漉き和紙のなかに現在も脈々として生きています。模造紙もまたA模造紙として洋紙の一銘柄とはなりましたが、根強い需要を得て今も健在です。

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