「洋紙と用紙」第31回「日本の洋紙―黎明期」その1

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日本の洋紙の黎明期あるいは創成期といわれるのは、明治七年から一二年にかけて七つの洋紙製造工場ができた時期をさしています。7工場の一つである大蔵省印刷局抄紙部は紙幣や証券など独自の開発を進めるとともに、民間の洋紙産業の発展に大きくかかわって推移しますが、ここではそれ以外の民間6社について述べることにします。

洋紙誕生の背景

明治維新は、鎖国日本を世界のなかの日本へ、幕藩政治を中央集権政治へ、封建的な社会経済制度を資本主義経済へと制度そのものを大きく変えました。

新政府は、日本を早く欧米化するために「文明開化」「富国強兵」そして産業の近代化をめざす「殖産興業」政策をかかげ、強力に押し進めました。その一方で、議会政治の確立、基本的人権の確立、民主主義の確立こそ文明国の発展の基礎であると、自由民権運動が国民の側からおきました。

社会、経済、文化の一大変化は紙にも大きく影響しました。紙の需要が急増し、旧来の製紙業も近代化を要求されることになります。『製紙業100年のあゆみ―紙の文化と産業』は紙の需要が急増した要因について「その第一は、新政府の発行する紙幣、公債証書及び諸印紙類など主として政府が必要とした用紙である。第二は文明開化にともなって発行した新聞、雑誌、翻訳書、小説類など各種の印刷物の発行にともなう、主として民間の用紙需要である」としています。

時代の要請にこたえるには、従来の日本紙つまり和紙の育成、増産、外国から輸入する西洋紙、そして近代技術を用いた機械抄き用紙の開発、育成、自給自足が必要でした。

当時の新聞・雑誌

民間の紙の需要先である新聞・雑誌の当時をみてみます。

明治維新の気運は、言論、出版の自由をも押し出していきました。新聞・雑誌の発行は維新前から始まっていましたが、活発になったのは明治と改まってからになります。

明治元年(1868年)、新政府は『太政官日誌』を京都で発行。民間では「中外新聞」「江湖新聞」「横浜新報もしほ草」「内外新聞」と続きます。が、新政府は、6月に政府攻撃の論文をきっかけとして「新聞を許可なく発行することを禁止」する布告を発し、アメリカ人の発行する「もしほ草」以外の新聞は一時壊滅状態になります。

明治2年、引き続き「新聞紙印刷条例」、10月、3度目の「新聞紙条目」と発行の許可制、政法批判禁止が発せられます。

同3年「横浜毎日新聞」、4年「新聞雑誌」、5年には「東京日日新聞」「郵便報知新聞」などが次々に発行され、「明治10年末には新聞、雑誌の総数がすでに136種の多きに及んだ」(現代日本産業発達史研究会『現代日本産業発達史12』)ほどになります。西南戦争(明治10年1月~10月)では、日々の戦況をもとめて新聞への関心が高まり、読者が急増します。

同11年ころの記録では、1日の発行部数がトップクラスの「朝野新聞」「読売新聞」で、東京府内として1万8000部となっています。

新聞縦覧所のあった当時のことです。

これら新聞に使われた紙をみると、明治3年の「横浜毎日新聞」は日本最初の日刊新聞で、洋紙1枚に活版刷り。同5年「東京日日新聞」は東京最初の日刊紙で和紙に木版の片面刷り。6年に両面刷り。『日新真事誌』は洋紙タブロイド両面刷り。「郵便報知新聞」は半紙2つ折り6枚となっており、創業期の新聞用紙は和紙と輸入された西洋紙で発行されていたことがわかります。

輸入紙・西洋紙の出現

近代社会への開化は、紙の需要を増し従来の和紙以上に洋紙への依存を高めました。こうしたことを背景に、西洋からの輸入紙、つまり西洋紙が出現してきます。

つぎに、明治初期の西洋紙の輸入高をあげます。

数字だけでは分かりにくいでしょうが、当時はこのようであったのか、と思ってみるだけでも良いでしょう。他に、比較するデータがあったときには生きてきます。

表 明治初期の西洋紙輸入高
年次 輸入高
(ポンド)
輸入高
(t)*
明治元
(1868年)
18,000 8.0
明治2 51,000 23
3 122,000 55.5
4 175,000 79.5
5 113,000 51
6 296,000 134
7 705,000 320
8 1,028,000 466.5
9 828,000 375.5
10 1,700,000 771
11 2,178,000 988
12 1,289,000 584.5
資料:『日本紙業綜覧』
*トン数は筆者の換算。0.5t区切り。
1ポンド=0.4536kg

続く

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